刺し傷は今も残ったままなんだ

アダルトチルドレン&躁鬱病の愚痴吐き場

小学校の問題児

毒親&妹の影響で捻くれた幼稚園児だった私。

当然小学校でも問題を起こします。

結論から言うと「暴力」ですね。

小学校1、2年の頃に男女の対格差なんてありませんし、男子でも女子でも関係なく気に入らない事があれば殴りました。

親が自分を認めてくれないけど、褒められたかった私。

1、2年の頃のテストはほぼ100点。

でも父は私が「言葉の通じない馬鹿」だから殴る

つまり学校でも100点も取れないような奴は自分よりも「言葉の通じない馬鹿」=「殴ってもいい相手」と思っていました。

だって人を殴っちゃ駄目なんて誰も教えてくれなかったし、馬鹿は殴らないと分からないから。

 

小学校の先生に一人呼び出されて叱られた時も平然と

「お父さんが馬鹿は殴らないと分からないって言ってた。あの子は私より馬鹿だから殴った。教えてあげたのに何がいけないの?」と答えました。

悪びれない私が面倒くさかったのか、家庭環境を察して無駄だと思ったのか

小学校1、2年の時の担任の先生はこの後私を呼び出して怒ったりしなくなりました。

殴った時は都度止めに入られましたけどね。

当然学年内で問題児となり友達もあまりいませんでした。

こんな状態でも友達になってくれた子が数人いたことに驚きでしたけど。

その時の友達は私より頭が良い人=私が殴らない人ばかりでしたね。

自分より頭が良い人ばかりといる事で、やっぱり自分は馬鹿なんだ、殴られてもしょうがないんだと再確認もしていました。

人と比べて自分が劣っている事を確認して、親の理不尽な行動を正論化して安心したかった。

妹について

さて事あるごとに私と妹に差をつけてきた両親。
当然妹は調子にのります。

私の物を何でも欲しがり、渡すのを渋るとすぐ母を呼ぶ。
当然私が怒られ持ち物は取り上げられる。
私が大切に扱っていたって、妹にとってはどうでもいいもの。
壊されたりボロボロにされたりして飽きた頃に戻ってきます。
私が泣いたって、抗議したって、母は一切取り合ってくれません。
「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい。」いつもこれ。
お姉ちゃんっていうのは一方的な理不尽を受け入れる為の役職ですかね?役職手当貰ってませんけど。

当時はADHDという名称は今ほど広がっていなく
妹が3歳になった頃に知的障害がある、という事だけ分かったようです。
しかし両親はそんなの認めたくなく…何とか普通学級に通わせるために療育に力を入れ始めました。
そこでのストレスはまた私で発散。
「妹は頑張ってるのにあんたは全然頑張ってない。」
「あんたは普通なのに何でこんな事も出来ないんだ。努力が足りない。」
「頑張れば1番になれるはずなのに何でなれないの?」
私は普通であるから世の中にある全てが出来て当然。
小学校のテストで100点をとったって、作文が入賞したって、何を出来たって当然だから
私は頑張っていないクズとして扱われました。
今までの人生で両親に褒められた事はありません。
何とか褒めて欲しくて必死に色んな事を頑張って、それでも学校の勉強で1番にはなれないし、運動はいくらやっても全然うまくなりませんでした。
何をしたって「頑張ってない」と全否定される行為は確実に私の心を蝕んでいたと思います。
両親にとって私のやる事は結果の伴わない無駄なものであったのですから。

当然私は妹が嫌いになりました。
私は当時6、7歳。
お姉ちゃんだからと我慢ばかり、怒られるのも自分ばかり。
妹は私より出来ないくせに何をしても褒められる、可愛がられる。
羨ましくて、ずるくてしょうがなかった。
なんで私は可愛がってもらえないのだろう。
馬鹿だから?可愛くないから?努力が足りないから?
いくら考えても分かりませんでした。

父について

さて前回で私は父似とお話しましたが
父は自分に似ている私を可愛がったのか。
答えはノーです。

仕事人間、子育てには参加せず。
そんな父が私に関わってくる時は
急に殴ってくるという場合のみでした。
仕事でうまく行かなかった時、パチンコで負けた時、とにかく機嫌が悪い時に私が目についたのでしょう。
バシーンと殴られました。
もちろん私は泣きましたが、泣くとうるさい!とさらに殴られました。
5歳くらいの頃の父の機嫌が良さそうな時に聞いてみた事があります。
「どうしてお父さんは私を叩くの?」と
父の答えは「お前は馬鹿だから叩かないと分からないからだ。」でした。
とんでもない理屈ですが、当時の私はその言葉をすんなり受け入れてしまいました。
自分が馬鹿だから悪い、自分がいけない、悪い子だから殴られてもしょうがない。そんな諦め。


ちなみに妹は殴られませんでした。
妹は母のお気に入りだったので、殴ると母が騒ぎますからね。
本当に私は母にとってどうでもいい存在だったんだなぁ。

母について

順番に紹介して行こうと思いますが
まずは子供に一番接する機会の多い母から。
一番接する機会が多いという事は一番影響を与えやすいですからね。

私の父は転勤の多い仕事でしたので
当然母も私も転勤について行きました。
妹が生まれたのは私が物心つく3歳の時。
ちょうどその頃に転勤もあり、母は見知らぬ地で知り合いも頼れる人もいない状態で2人育児をする事となりました。

父は完全に仕事人間で家事育児はノータッチ。
まぁ昔はそう言う家庭も多かったでしょうけど。
転勤したばかりで母も専業主婦でしたし。
だけど初めての2人育児、頼れる人はいない、社宅に住んでるので周囲には気を使わなきゃいけない。
そんな状態でどうなったかと言うと、まぁ見事に母は気が狂いました。
育児ノイローゼというやつです。
この頃の記憶に残っているのは床に転がり奇声を発しながら泣き叫ぶ母の姿です。
私はそれをどうしようもなく見ている事しか出来ませんでした。

母が泣き叫ぶというのも3歳児には衝撃だったのですが
私が4歳になった頃にはもっとエスカレート。
包丁をふりまわして「殺してやる!!」と叫びながら追いかけてきたり(母が落ち着くまで子供部屋に逃げてドアを閉めていました)。
死ねー!死ねー!と叫びながらベランダから落とそうとしたり(必死で手摺にしがみつきました)。
さらにはこんな状況でも何の手伝いもしない父に苛立ったのか、父似の私と母似の妹で差をつけるようになってきました。
このお洋服が可愛いから欲しいというと
「お父さんがスカートはいてて似合うと思うのか?」と怒鳴られ
「思わない。」」と答えると満足そうに
「じゃあお父さん似のあんたに似合うはずないでしょ!」と言い捨てられて
可愛い服は尽く諦めさせられました。
その後に私が欲しいといった服と同じようなデザインの可愛い服を妹にあて
「妹ちゃんはお母さんに似てるから似合うねー!可愛い!」と見せびらかされました。
私はこの時
自分はお父さん似でブサイクだからしょうがない
お母さんに似てないからしょうがない
と諦めました。
そこからは自分で服を選ぶ事はなくなり、母が指定した服だけ着るようになりました。

毒親&毒兄弟

はじめまして。遊馬あきと申します。
アダルトチルドレン&躁鬱病を患うアラサーです。
どちらも心の奥底にあるのは毒親と毒兄弟の影響が大きいのかなと思います。
ブログという場所で吐き出す事で少しでも楽になりたい、と言うのが本音です。
見ても面白いものではないと思いますが
今辛い思いをしている人、今自分を責めている人、苦しくてしょうがない人。
少しでもそんな人の参考になれば嬉しいです。

さて、まず私の家庭環境をご説明しましょう。
そこそこ大企業に勤める父
パートの母
ADHDの妹。
こんな家族構成です。
妹がADHDだと診断されたのは大人になってからですけどね。

両親共に外面がいいので友人ですら私の親が毒親と言うと驚かれます。
「あんなにいい人そうなのに?」
「優しそうな人じゃん!」という具合に。
私としてはその外面を保つストレスを家庭で発散してたのではないかなーっと思いますが。
からしたら本当に迷惑な話です。
子供は親のストレス解消の道具ではないし、自分は子供をきちんと育てているという親の見栄を満足させるための道具でもありません。
それが分からないから毒親だったのでしょうけど。


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